店主のコラム
某々氏の全詩篇ー少年少女のための愛唱詩篇
2026.05.30
学年別詩集なるものがある。あるいは、テーマ別詩集なるものがある。
いずれも、基本的には初心者向けを意図している。初めて詩を日本語で読む幼児、少年少女、中高生への優しい入門書として編まれて来た。順次読み進めれば、日本語の詩を理解出来るとうたっている。やさしいあいうえおで書かれているが、これらは教訓や説諭であって詩の破片ともみえない。
啓蒙精神の押し売りに似ている。「友情について」「家族について」「夢について」等々、よくみるアンソロジーは、人生に役立つ詩をちらつかせながら五里霧中に道を惑わせる元凶である。
初心すなわち奥義であることが見事に忘れ去られている。
まだ見ぬ少年少女とはわたしたちの先駆者にほかならぬ。そのように考える謙虚さというものは詩人たちから忘れ去られてしまったのだろうか。
1968年、『現代詩手帖』(思潮社刊、1月号)に掲載された「某々氏の全詩篇」は衝撃だった。掲載された三篇そのものもだが、そのタイトルの表記がである。
以下、元は縦書きだが横に記す。
某々氏の全詩篇
筆記=岡田隆彦
媒体=右に同じ
ここには、詩篇を書くということ(あるいは、書いた詩篇そのもの、そして詩人の身体と氏名からどこまでも離れて行きたい、遁れて行ってしまいたいという非望の表明がある。詩人の肉体は全詩篇を瞬時に出現させる手という媒体に過ぎず、しかもその手とは、筆記する時間そのもののことだ言うのだ。
さて、わたしたちの追いすがる手を逃れてその手の一歩前にある詩ー少年少女が口ずさみ読みあさる私的言語、まだわずかに見えるだけね破天荒な日本語、その語彙が珍妙にかもす新たな文脈の螺旋に巻き込まれて異界に落ち込むほかない奇怪な詩篇ーつまりそれは、ただひとりの某々氏のみが書きうる詩のアンソロジーを編むことによってのみ可能だと、わたしは長いこと夢見て来た。
その中には、これまでの日本語、その馴染みの了解事項からどこまでも逸脱して行くかにみえる本当の詩があるだろう。
少女少年の不滅の若さを安く、かつ甘く見積もるのは、大人の錯乱である。横柄な怠惰である。
後から来る者こそわたしたちの希望でなくて何だろう。
『某々氏の全詩篇』とは、彼らに詩の奥義を伝える、新體詩百余年における逸品の最もたる詩で満たされるだろう。それ故、わたしの偏向による奇妙で奇天烈な詩篇のオンパレードとなるだろう。
ひとの世の仮の名前など何ほどのものか。このアンソロジーの詩人名は、巻末に消え入りそうに小さく記されるだろう。